2016年 02月 08日
父のこと |
平成27年12月19日
大好きな父は急性大動脈解離で突然亡くなりました。
母は数年前から、認知症になり父は母の日常を助けていました。
私の母は、美容師として、働く女性として誇り高く、何よりも仕事を第一に考える人でした。
なので、私と弟は幼少期から母よりも父と一緒にいる時間が長く、
父が作ったご飯を食べて、TVはプロレスやプロ野球を父子3人で見るのが日課でした。
私にとっての父は、世のお母さん的な存在だったのです。
母の介護がだんだんと大変になってきて、
ここ数年は、なるべく月に1度か2度は那須へ行っていましたが、
これからは、ひと月の半分くらいを犬と共に那須で暮らすのもいいかもしれない、
そんなことも考えていました。
母は20年前の58歳の時に脳梗塞になり、父は18年前の62歳の時に大動脈解離の手術を受けていました。
命拾いした残りの人生を田舎暮らしで、と那須に引っ越し、素晴らしい自然の中で
畑をやったり、庭を作ったりして暮らしていました。
近隣の方々にも仲良くしていただき、本当に最高の最終章だったと思うのです。
父は常々「また、あの時(18年前)みたいに苦しんでも、今度はそのまま死にたいから、助けなくていいよ」
そう言っていました。救急車こそ呼ばれてしまったけれど、病院で助けられては困るとでも思ったのでしょうか、救急車の中で呼吸がなくなったそうです。
最後に、何か話たのでしょうか。
救急車に同乗していた母は、父が亡くなったこともわかっていなかったようです。
いつかは、死んでしまう
ずーっと、恐れていたことがこんなに早く訪れてしまった。
取り返しがつかない悲しみで押しつぶされそうでした。
どうやっても、もう父と話すことも、髪の毛を切ってあげることもできない。
一緒に、ご飯を食べることも、温泉に行くことも、ジャガイモを掘ることも・・・
救急車に乗るまでの父の気配だけが残った家で、悲しくて泣きました。
「ごめんね、悲しい思いをさせてごめんね」と
母が頭を撫でてくれました。
母は泣きませんでした。
父の葬儀の相談や準備をしている時、宗一郎も様子がおかしくなり
お通夜の晩には、かなり弱ってしまって、もしかしたら死んでしまうのかもと思いました。
「お父さん、まだ連れて行かないで」
順番でいけば、宗一郎が先に死ぬとばかり思っていたけど、
今は、お父さんのことで一杯一杯なので、宗一郎はまだ死んじゃダメ!
お願い、宗一郎は死なないで!!と祈りました。
宗一郎が子どもの頃、仕事が忙しい私の代わりに、父が夕方の散歩に行ってくれていました。孫のように可愛がってくれていたので宗一郎も、お父さんについて行きたかったのかもしれないね。
父は、救急車に乗る時も、手書きの緊急連絡先の名簿をしっかりと持って、
母の保険証や病院の通院予約カードや診察券や、
とにかく、いろいろなことをわかりやすく保管してくれていました。
冷凍庫には、母の好きなアイスが綺麗に並べて入っていたり、
私たちが行くと焼いてくれる塩鮭を一つずつラップして、きちんと並べて冷凍して、
どこもかしこも、父の気配が悲しみに追い打ちをかけてきます。
お父さん。もう一度話がしたいな。
父の葬儀が終わり、ご迷惑をおかけした分の仕事を挽回すべく
少し元気を取り戻した宗一郎と、聞き分けの良かった とわとえる、
認知症の母を連れて、自宅に戻ってきました。
大晦日の年越しそばを食べる時、母は突然泣きだしました。
「お父さん、お蕎麦が大好きだったのに、もう食べさせてあげられない」
わーっと泣いていました。
休みを返上して仕事をして、母の奇行とわからんちんとで、
私の生活も一変してしまい、そのおかげでなんとか悲しさを紛らわしてこれました。
家族みんなが、夢に父が出てきたというのに、私だけはまだ見ていません。
ちょっとずつ、アルバムを整理しています
大好きな父は急性大動脈解離で突然亡くなりました。
母は数年前から、認知症になり父は母の日常を助けていました。
私の母は、美容師として、働く女性として誇り高く、何よりも仕事を第一に考える人でした。
なので、私と弟は幼少期から母よりも父と一緒にいる時間が長く、
父が作ったご飯を食べて、TVはプロレスやプロ野球を父子3人で見るのが日課でした。
私にとっての父は、世のお母さん的な存在だったのです。
母の介護がだんだんと大変になってきて、
ここ数年は、なるべく月に1度か2度は那須へ行っていましたが、
これからは、ひと月の半分くらいを犬と共に那須で暮らすのもいいかもしれない、
そんなことも考えていました。
母は20年前の58歳の時に脳梗塞になり、父は18年前の62歳の時に大動脈解離の手術を受けていました。
命拾いした残りの人生を田舎暮らしで、と那須に引っ越し、素晴らしい自然の中で
畑をやったり、庭を作ったりして暮らしていました。
近隣の方々にも仲良くしていただき、本当に最高の最終章だったと思うのです。
父は常々「また、あの時(18年前)みたいに苦しんでも、今度はそのまま死にたいから、助けなくていいよ」
そう言っていました。救急車こそ呼ばれてしまったけれど、病院で助けられては困るとでも思ったのでしょうか、救急車の中で呼吸がなくなったそうです。
最後に、何か話たのでしょうか。
救急車に同乗していた母は、父が亡くなったこともわかっていなかったようです。
いつかは、死んでしまう
ずーっと、恐れていたことがこんなに早く訪れてしまった。
取り返しがつかない悲しみで押しつぶされそうでした。
どうやっても、もう父と話すことも、髪の毛を切ってあげることもできない。
一緒に、ご飯を食べることも、温泉に行くことも、ジャガイモを掘ることも・・・
救急車に乗るまでの父の気配だけが残った家で、悲しくて泣きました。
「ごめんね、悲しい思いをさせてごめんね」と
母が頭を撫でてくれました。
母は泣きませんでした。
父の葬儀の相談や準備をしている時、宗一郎も様子がおかしくなり
お通夜の晩には、かなり弱ってしまって、もしかしたら死んでしまうのかもと思いました。
「お父さん、まだ連れて行かないで」
順番でいけば、宗一郎が先に死ぬとばかり思っていたけど、
今は、お父さんのことで一杯一杯なので、宗一郎はまだ死んじゃダメ!
お願い、宗一郎は死なないで!!と祈りました。
宗一郎が子どもの頃、仕事が忙しい私の代わりに、父が夕方の散歩に行ってくれていました。孫のように可愛がってくれていたので宗一郎も、お父さんについて行きたかったのかもしれないね。
父は、救急車に乗る時も、手書きの緊急連絡先の名簿をしっかりと持って、
母の保険証や病院の通院予約カードや診察券や、
とにかく、いろいろなことをわかりやすく保管してくれていました。
冷凍庫には、母の好きなアイスが綺麗に並べて入っていたり、
私たちが行くと焼いてくれる塩鮭を一つずつラップして、きちんと並べて冷凍して、
どこもかしこも、父の気配が悲しみに追い打ちをかけてきます。
お父さん。もう一度話がしたいな。
父の葬儀が終わり、ご迷惑をおかけした分の仕事を挽回すべく
少し元気を取り戻した宗一郎と、聞き分けの良かった とわとえる、
認知症の母を連れて、自宅に戻ってきました。
大晦日の年越しそばを食べる時、母は突然泣きだしました。
「お父さん、お蕎麦が大好きだったのに、もう食べさせてあげられない」
わーっと泣いていました。
休みを返上して仕事をして、母の奇行とわからんちんとで、
私の生活も一変してしまい、そのおかげでなんとか悲しさを紛らわしてこれました。
家族みんなが、夢に父が出てきたというのに、私だけはまだ見ていません。
ちょっとずつ、アルバムを整理しています
by plusai_dog
| 2016-02-08 16:53